写真はNC旋盤によるクランクシャフトの切削加工ライン。
創業30周年そしてNC時代のスタート
創業30周年を迎えた昭和51年からの約10年間は、二度の石油ショックを背景に、低成長期における安定とさらなる成長を求めて、新たな取引先を模索しはじめた時期であった。また技術面ではコンピュータによる生産管理が著しく進み、ロット生産から1個流しへと生産形態の大転換が進んだ時期でもあった。同時にこれに対応するプログラミング技術を確立し、稼働が軌道にのると、続けて9台を導入した。これによる生産効率の向上は目覚ましく、NCの時代を印象づけた。
生産方式の大転換でムダのない生産体制への挑戦
昭和50年代の多品種少量生産の時代を迎えると、合理化策に新たな方向性が生まれた。段取工程の最短化への挑戦である。
段取工程とは、ひとつの工作機械で加工対象となる部品を切り替える時、治具や取付具、刃具などを取り替え、次の加工をスタートさせるまでに要する工程を指す。この時間が短くなれば、一度に大量加工をして余分な在庫をためておく必要がなく、多品種少量生産にも柔軟な対応が可能となる。
昭和53年、当社は小型卓上ブローチ盤を設計、製作。オートバイ用ギヤシフトフォークの軸穴加工の精度を向上させるとともに、生産性を約2倍に改善した。これを足掛かりとし、さらに治具や段取工程の改善を行って、検査装置までインライン化した完全1個流しのラインシステムを完成させた。これによって得られた成果は、在庫100分の1、コスト25%ダウン。新ラインシステムの威力は絶大であった。
段取工程の最短化を目指し、大口ットのバッチ処理から小口ット1個流しのラインへ転換が始まった。
トヨタ生産方式の啓蒙と従業員への呼びかけ
昭和50年代の初頭からスタートした段取工程最短化の背景には、当時脚光を浴びはじめたトヨタ生産方式の思想があった。昭和53年11月発行の社内報「おぐす」に、二代目社長、当時の技術部長である小楠倫嗣がトヨタ生産方式についての詳しい紹介文を寄せ、全社に向かって段取り時間の最短化を実現するアイデアを求めている。
「トヨタ生産方式について」
技術部長 小楠倫嗣
最近よく聞かれる言葉として「トヨタ生産方式」、「カンバン方式」があります。これはオイルショック後の低成長時代において消費者嗜好が多様化し、多種少量生産において原価を安く、早く、よい品物を造る方法として生まれたものです。---(中略)
●シングル段取
段取時間を9分59秒以下で行うことを言います。
・・・今まで段取時間が1時間かかっていたものが改善工夫することにより30分、10分、3分とだんだん早く出来るようになります。これは治具設計、機械設計はもとより、現場の皆さんのアイデア、やる気により必ずや連成出来ます。・・・
低成長期を迎えて今後ますます企業環境は厳しくなります。私達の会社が発展するにはトヨタ生産方式を手本として小楠金属流の生産方式を確立するよう皆さんの協力、アイデアを期待します。新しい生産方式への模索が続く一方、先進機器の導入による品質と生産効率が徹底して追求されていった。昭和57年には三井治具ボーラーを導入。内作加工治具の加工精度が100分の2ミリオーダーから1000分の5ミリオーダーへと格段に向上し、必要とあらばあらゆる治具が内作できるようになった。昭和60年にはオークママシニングセンターを導入し、多品種少量生産の異形物加工の汎用化が可能になった。
三井治具ボーラーの導入で、内作治具の加工精度が向上した。
第三の柱を求めて
取引先の拡大
「我々は永遠の小楠金属を作らなければならない建築家のようなものである。立派なものを作りたい。
道具箱(生産設備)と原材料その他会社の総資本と規則書(経営方針・生産技術)を与えられている。各人の知恵と実力を充分に発揮して欲しい。
当社を一層見ごたえのあるものにするために全従業員の奮起を願ってやまない」
昭和55年、第二次石油ショックで原油が高騰し、「原料高の製品安」が予測された年度始めの社内報に、小楠剛一はこのような文章を寄せている。タイトルは「艱難汝を玉にする(人間は多くの苦難を克服して初めて優れた人間になることができるという意味)」。
厳しい時代を前にして、従業員に対し今何をすべきかをもう一度問い直させる心からの呼びかけであった。
経営面からは、不安定な時代を生き残る策として、鈴木自動車と久保田鉄工に次ぐ第三の柱を打ち立てる必要性が迫ってきていた。昭和59年からこの動きが本格化し、現在に至るまで取引先開拓とその事業の育成に多大な努力が払われている。
昭和59年、第三の柱の筆頭として栃木富士産業㈱と取引がはじまる。日産系の一部上場企業である同社は栃木県栃木市に工場があり、小楠金属が同じ県内の宇都宮市に駐在事務所を置いていたこともあって付き合いがはじまった。時代はバブル景気と呼ばれた大型の好況期にさしかかり、先進の合理化機械と技術力をテコに旺盛な対応力を発揮していったのである。
第一工場の大規模な改築と創業40周年目の別れ
昭和35年、現在地に全面移転した当社は、以来25年近くの間に数回におよぶ増築を行って、増産や生産形態の変化に対応してきた。しかし、それも昭和59年暮れ頃からついに限界となり、昭和35年当時からの第一工場の改築が検討されはじめた。
時は昭和60年、創業40周年を翌年に控えていた。
工場の拡張問題を考えるにあたり、当初、別の場所での新工場建設も検討された。しかし、篠原町の企業として成長したいとする社長はじめ役員の意思が強く、また現在の敷地を有効活用する意味から、旧工場を取り壊して、新たに2階建ての工場を建築することとした。
昭和60年6月、起工式。基礎杭打ちがはじまり、鉄骨建方がはじまって、いよいよ10月に旧建物が取り壊される段になると、小楠剛一は「見るにしのびない」と言って終日社長室にこもっている日もあったという。
その年も暮れの12月30日、第一工場の改築が完了。東西44.3メートル、南北32メートル、1階面積11430平方メートル(433坪) 、1.5トン荷物エレベーターを備えた近代的な工場が誕生し、翌61年から稼働をはじめた。
昭和61年には、かつて国方の第二工場のあった跡地に新たな社宅が建設された。2階建て1棟に2DKが6戸入り、共聴アンテナ、照明等が整っていた。
当社成長のシンボル的な存在であった第一工場の改築と再スタート、そして創業40周年と、時代の代わり目を感じた昭和61年は、悲しい別れの年ともなってしまった。夏の名残の色濃く残る9月2日、小楠剛一逝去。翌月20日に小楠倫嗣が第2代社長に就任し、当社40年の歴史を土台に新体制がスタートした。
初代小楠剛一社長
平成20年撮影。西工場、第八工場ができ西側へ拡大したことがわかる。